◎できるだけ10時30分に、難しい方はご都合のつく時間に守ってください。
黙祷
讃詠 12「とうときわが神よ」
主の祈り
賛美 205「今日は光が」
聖書 マタイによる福音書 第5章17-20節(新約聖書7頁)
17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
賛美 342「神の霊よ、今くだり」
説教 <小さなことを大切に> 牧師 木谷 誠
当たり前のことですが、実はイエスはキリスト教徒ではありません。イエスはキリスト教を生み出したユダヤ教の信者でした。ちなみにイエスは、キリスト教の「教祖」でもありません。おそらくイエスは、ユダヤ教から独立して新しい宗教を始めようということは考えていなかったと思います。キリスト教というユダヤ教を基礎とした新しい宗教を広めているという自覚もなかっただろうと思います。キリスト教が生まれるのはイエスが十字架にかかって死なれ、復活され、天に昇られたとのことです。
イエスはむしろ聖書を学び、祈る中で、ユダヤ教の本質を見つめ直し、それを伝えようとしました。そして当時、ユダヤ教の本質を見失っていた人々に本来のユダヤ教を伝えようとしたのだと思われます。
ただイエスのメッセージには当時のユダヤ教にはみられない新しさがありました。それは神を「あなたがたの天の父」として伝え、神を「父」と呼ぶように教えたことです。それはマタイによる福音書第6章、いわゆる「山上の説教」と呼ばれる部分で生き生きと語られています。イエスはイスラエルの神が、厳格な「主」という側面ばかりではなく、愛に溢れた「父」であることを伝えたかったのです。そして人々を生き生きとした神との愛の交わりの世界に招いたのでした。
神を「父」と呼ぶことへの批判もあることも承知しています。特に家父長制への批判から出てきています。「父」という言葉でイエスが伝えたかったことは、私たちを「子」としてくださる神との交わりの世界の喜びを伝えたかったということなのです。「私たちと神との関係は、嫌も応もない服従ではなく、喜んで従う、信じて従う、愛の交わりの喜びの世界なのだ。みんなそこへいらっしゃい。」とイエスは招いているのです。
その上で、イエスはユダヤ教を否定してはいません。むしろその本質を伝えようとしたのです。律法とは出エジプト(イスラエルがエジプトでの奴隷生活から解放された救いの出来事)という神の救いの御業をいただいて、その恵みに応えて生きるにはどうしたら良いかを示したものです。ユダヤ教の中心です。この律法を守ることによって、イスラエルは神との愛の交わりを実現し、真の幸せを実現する。イエスはそこをしっかりと伝えていきたかったのです。
「義」という言葉は、「神との正しい関係、神との本来あるべき関係」を意味しています。それは「命令を守る重苦しい」服従の関係ではなく、「喜んで従う」愛の関係、神に喜んでいただくために、喜んで大胆に生きる関係です。神の愛を喜び、こんなにも自分を愛してくださる神にどうしたら喜んでいただけるだろうかとワクワクしながら顔を輝かせて生きる。そんな人生の歩みです。そして共に信じる仲間との出会いを喜び、共に生きる。神を愛し、人を愛して共に生きる喜びの生活。これがイエスが言いたかった「義」なのです。
私たち、イエスが招く愛の交わりの世界、そのような意味での「義」の世界にワクワクしながら歩み出してまいりましょう。
賛美 55「人となりたる神のことば」
献金(ご都合の良い時に教会にお捧げください)
頌栄 91「神の恵み、ゆたかに受け」
黙祷
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