2024.4.28 開会 10:15 復活節第5主日(聖霊の実)2024.4.28

黙祷    
讃詠 11「感謝にみちて」
主の祈り
賛美 149「わがたまたたえよ」
聖書 ヨハネによる福音書第15章18-27節(新約聖書199頁)
18 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。20 『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。21 しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。22 わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。24 だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。25 しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

賛美 348「神の息よ」
説教             <誰の身内か>           牧師 木谷  誠
本日の聖書を読んでいまして、今治教会の創立期のことを思いました。今治教会創立の年、明治12年は、キリシタン禁令の高札が撤回されてからまだ僅か5年しか経っていませんでした。創立者の横井(当時は伊勢)時雄は、洗礼試問で、「再びキリシタン禁令の時代になったら死刑になるかもしれない。それでも良いか。」というとても厳しい問いかけをしました。そのような厳しい時代の中で、当時の人々は決断して、洗礼を受けたのでした。その人たちの覚悟は並大抵のものではなかったことでしょう。
それは何も今治教会に限ったことではなく、明治時代の教会には似たようなエピソードがたくさんあったようです。厳しい迫害もあったとのこと、その点では小松教会はより厳しい迫害を受けたと聞いております。また岡山県の高梁教会の礼拝堂は、今治教会の旧礼拝堂を建てた吉田伊平氏によるものであり、岡山県の重要文化財にもなっています。私は岡山におりました折にその高梁教会を訪ねました。高梁教会も当初激しい迫害があり、教会に投げ込まれた石を「迫害石」として保存していました。私はその迫害石を見せてもらうことができました。その石は子どもの頭ぐらいの大きさでした。これを投げ込むのは相当な力が必要でしょう。まともに当たったら大怪我をすると思いました。
初代教会の人々が受けた迫害はもっと凄まじいものであったことが歴史の資料を読むとわかります。初代教会の人々は、そして明治期のキリスト者たちは、いったいどうやって、そんな迫害を乗り越えていくことができたのでしょうか。
明治時代の人はとても強い人たちだったからでしょうか。確かに今の平和な時代に生きる私たちよりもはるかに困難な時代でしたでしょうから、とても強い人たちだったことでしょう。でもそれが迫害を乗り越えて信仰を守った理由でしょうか。私にはどうしてもそうは思えません。イエスが強い人とともにある神ならば、それは聖書に書かれてあるイエスの姿と矛盾するように思えます。
彼らが迫害や困難を乗り越えて、信仰をまっとうできたのは、彼らの人間的な強さ、能力ではなく、聖霊という「弁護者」がいたからなのです。聖霊という「弁護者」は、イエスが天に昇られた後、イエスに代わって天から降ってきた目に見えない神の働き、または力です。この「弁護者」は信じる者に寄り添い、支え、励まし、助け導く神の働きです。この聖霊という「弁護者」が信じる者のうちに働きかけてくださったから、彼らは迫害や困難を乗り越えることができたのです。
少なくとも今現在、私たちが、初代教会や明治期の人々のような迫害や困難を受けることはないようです。しかし、今の時代には今の時代の困難や難しい課題があります。また私たちは未来に大きな不安を抱えています。そのような中にあって、私たちは聖霊という「弁護者」をイエスが約束してくださっていることが大きな支えです。この聖霊はヨハネの時代から今に至るまで生き生きと働いています。私たちが聖書を読み、祈るとき、礼拝に参加するとき、この聖霊が生き生きと私たちに働いてくださることに気づきます。そして私たちはこの聖霊なる「弁護者」によって、神の愛を心に受け、喜びと感謝を持って、イエス・キリストを証しする者として歩むことが可能となるのです。
賛美 347「たたえよ、聖霊を」
献金(ご都合の良い時に教会にお捧げください)
頌栄   564「イェスは委ねられる」
黙祷
**************************************************************************************************************

この記事へのコメント