◎できるだけ10時15分に、難しい方はご都合のつく時間に守ってください。
黙祷
讃詠 6「つくりぬしを賛美します」
主の祈り
賛美 167「天にいます神よ」
聖書 ヨハネによる福音書第21章1-14節(新約聖書211頁)
1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
賛美 341「来れ聖霊、わが主」
説教 <出会いの朝、喜びの食事> 牧師 木谷 誠
今日の聖書も、先週に続いて、復活のイエス・キリストと弟子たちの出会いの出来事が記されています。彼らが救い主と信じて従ったイエスは十字架にかけられて死んでしまいました。弟子たちはとても惨めでした。彼らの救い主のイメージはイスラエルをローマの支配から解放するヒーローでした。その彼らの期待は外れてしまいました。
イエスの死と共に彼らの志も敗れました。それだけではありません。イエスが捕えられる際に、彼らは逃げてしまったのです。自分たちの先生を見捨てて逃げる。自分たちの弱さと不甲斐なさを弟子たちはまざまざと思い知らされました。
人生の期待と志が破れ、自分の弱さと罪深さを思い知らされて、弟子たちはスゴスゴと故郷に帰りました。そこはティベリアス湖(ガリラヤ湖と同じ)のほとりでした。もともと彼らは漁師だったのです。夢破れて故郷に帰る。最後の選択肢でした。帰る故郷があるだけありがたいのかも知れません。
そんな彼らは「漁に行こう」と言いました。惨めな挫折の中でも生きていかなければなりません。ユダのように死んでしまうわけにもいきません。食べていかなければなりません。しかし、ここにはもうしかしたらほんのわずかな希望もあったのかもしれません。彼らはティベリアス湖でイエスと出会ったと思われるからです。
漁に出かけましたが、何も取れません。そういうこともあるのでしょうが、彼らはますます悲しくなりました。彼らはますます惨めになってしまいました。何をやってもうまくいかないのです。かつてもこんなことがありました。その時、声をかけてくれたイエスはもういません。ますます悲しくなって、岸に戻ろうとしたその時でした。
岸から優しい声が聞こえました。「子たちよ、何か食べる物があるか」
以前にもこんなこと前にもあったような気もしますが、まだ弟子たちには分かりませんでした。「ありません」と弟子たちは素直に答えました。彼らはその優しく呼びかけた人物がイエスだとはわかりませんでした。復活のイエスは、十字架にかかる前のイエスすべてが同じではありません。復活のイエスは神としての新しい命に生きておられるのです。その命は、もはや以前のように時間と空間にも縛られないのです。
しかし、しばらくして弟子の1人がその人物がイエスと気づきました。復活のイエスはもうすでに、弟子たちよりも先にきておられたのです。そして弟子たちと出会ってくださいました。弟子たちがイエスを訪ねて出会ったのではありません。復活のイエスが弟子たちを訪ねて出会ってくださったのです。
イエスの言葉に従うと以前と同じようにたくさんの魚が網にかかりました。大漁です。喜びと驚きで慌てて岸に戻ってみるとそこにはすでに食事が用意されていました。イエスが備えてくださっていたのです。そこに先ほど採れた魚を何匹か加えて喜びの食事が始まりました。もはやその人物がイエスであることを疑う者はいませんでした。
復活のイエスは今も、私たちの生活場に来てくださいます。そして私たちを助け導いてくださいます。このことを喜び、感謝し、イエスに従っていきたいと思います。
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頌栄 90「主よ、来たり、祝したまえ」
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