◎できるだけ10時15分に、難しい方はご都合のつく時間に守ってください。
黙祷
讃詠 19「み栄え告げる歌は」
主の祈り
賛美 209「めさめよ、こころよ」
聖書 ヨハネによる福音書第12章20-36節(新約聖書192頁)
1 20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。34 すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」35 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。
賛美 347「たたえよ、聖霊よ」
説教 <死から命へ至る道> 牧師 木谷 誠
ヨハネ福音書が描くイエスは本当に「いきなりな」人です。問いと答えがかみ合いません。ごくごく普通の語り掛けに対して、イエスの応答は意味不明で、戸惑いを巻き起こします。本日の聖書箇所でも、フィリポが「イエスにお目にかかりたい」というギリシア人の伝言を伝えたら、イエスはいきなり「人の子が栄光を受ける時が来た。・・・」と意味不明な応答をなさいました。これで何度目でしょうか?ギリシア人たちの訪問の中にイエスは何を感じたのでしょうか?
ギリシア人たちの訪問は異邦人からの訪問ということができます。イエスの活動は、これまでは基本的にユダヤ人限定でした。そのイエスの活動を求める異邦人が現れました。これは神の救いのご計画の新しい段階が始まるとイエスは理解したのです。いよいよ「時が来た」のです。それはイエスが十字架にかかり、復活し、天に上げられ、聖霊が降り、福音がユダヤ人から異邦人へ、全ての民へと広がっていくという段階が始まったということです。ここにいたり、イエスは改めて、この神の救いのご計画に従い、十字架の死へと歩み出すことを宣言されます。その宣言を「よし」とする声が天から響いたのでした。
一粒の麦の死(土に帰ること)が多くの新しい命を生み出します。麦が地にまかれることは、麦が死ぬというイメージで理解されたのでしょう。一粒の麦が土に帰り、死ななければ新しい命、ゆたかな実りは生み出されません。同様にイエスが一粒の麦として死なれたことによって、そのイエスを信じる者たちがゆたかな命、ゆたかな実りをいただくことができるようになるのです。そのためにイエスはいよいよ十字架の死へと歩まれます。待ったなしの段階が来たのです。このイエスの死によって、死から命へ至る道が示されました。これは今までは全く考えられなかった道です。普通の道は命から死へと続く道ですから。ではこの死から命へ至る道とは具体的にどのような道なのでしょうか。
それはイエスに従う道です。「わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。」
イエスと同じことはできません。それでもイエスを主と信じるという信仰の原点は、イエスを主とするのですから、イエスに従うということを意味しています。イエスの言葉に聞き、イエスに祈ることです。イエスを最高の模範として仰ぎ見て、精一杯それに習う(倣う)歩みをなしていくことです。その時、私たちはイエスとの神との永遠の愛の交わりのうちに生きることができます。この永遠の愛の交わりは、理屈ではなく、イエスに従う決断をしたものに生き生きとした体験として与えられるのです。その時私たちは、死から命へと至る道を示されます。私たちは必ず死を迎えます。しかし、イエスに従う者は、その死を超えて永遠の命、永遠の愛の交わりへと至る道を歩んでいるのです。
賛美 443「冠も天の座も」
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頌栄 91「神の恵み、ゆたかに受け」
黙祷
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