2024.3.10受難節第4主日(香油を注がれた主) 開会 10:15

◎できるだけ10時15分に、難しい方はご都合のつく時間に守ってください。
黙祷    
讃詠 7「ほめたたえよ、力強き主を」
主の祈り
賛美 210「来る朝ごとに」
聖書 ヨハネによる福音書 第12章1-8節(新約聖書191頁)
1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
賛美 348「神の息よ」
説教           <最も尊い捧げもの>          牧師 木谷  誠
本日の聖書にはナルドの香油が出てきます。私、一度だけこのナルドの香油を手のひらにほんの少し塗っていただいて、香りを味わってみました。それはそれは強烈な香りでした。あれを1リトラもいただいたら、私ならとても耐えられないでしょう。もしかしたら気を失うかも知れません。それからこのナルドの香油は非常に高価だったのだそうです。その値段は、300デナリオンでした。1デナリオンが1日分の給与だそうです。そうすると300デナリオンは、「家一軒分」とはいかないまでも、「給料一年分」くらいではあったようです。その捧げものがなされたのはどういう場面だったのでしょうか?
イエスはラザロの家で客となって、弟子たちと一緒に食事をしていました。ラザロはこの出来事の直前でイエスによって死から蘇らせてもらった人でした。マルタはラザロの姉妹でとてもよく働く積極的で行動的な人でした。マリアは、おそらくマルタの妹でしょう。マリアは、どちらかというと物静かで、マルタとは対照的で、静かにイエスのお話を聴くのがとても好きだったようです。このマリア、ただただおとなしいだけの人ではなかったようです。ここではとても高価なナルドの香油を大量に、惜しげもなく捧げ、それをイエスの足に塗り、髪の毛で拭いました。相当大胆な捧げものですし、「捧げ方」でもありました。マリアという人は物静かにイエスの話をよく聴くという大人しいイメージがありますが、内に秘めた想いはとても熱いものがあったようです。その想いがこのような大胆な行動に現れたのでしょう。
マリアの行動を見て、その場にいたイエスの弟子たちの中でユダが反応しました。このユダの反応、ごもっともなようでとても嫌な感じがします。ユダは自分では何もしないのです。それでいて、一生懸命な行動、一生懸命な捧げものを非難して足を引っ張るのです。こう言うユダにはやましさがありました。ユダはイエスに捧げられたお金を預かって着服していたのです。そのようなやましさがユダにはありました。ユダはもしかしたら羨ましかったのかも知れません。マリアの行動はユダにはとてもできないことでした。だから、ユダにとって、このマリアの行動は、自分の不正を告発されているようで、心に痛かったのでしょう。そしてユダは自分を守ろうとしてこのようなことを言ったのです。ユダの言葉は、ごもっともなようで、実は人の足を引っ張るだけで何も生み出さない言葉でした。
このユダの言葉、とても嫌な感じがしますが、自分にも当てはまるようで、反省させられます。不器用でも、いきなりであっても、一生懸命した人、一生懸命捧げた人、その心を見ないで、想いを理解しようとしないで、ただただもっともらしいことを言って、その人の一生懸命な行動と心を台無しにするようなことを、今まで自分もしていたのではないだろうか?自分は何もしていないのに・・・と反省するのでした。という訳でこの出来事の登場人物の中で、私は自分はユダに近いのかもしれないと思うのでした。
では、マリアは、どうしてこんな大胆な行動、大胆な捧げものをしたのでしょうか?一説には、このマリアは、過去に姦淫の罪を犯した時にイエスに命を救われた(罪をゆるされた)女性ではなかったかと言われています。この出来事はヨハネによる福音書第8章に出てきます。マリアはとにかくものすごく大きな恩恵をイエスから受けていたのでしょう。マリアは、イエスと出会えたことに大きな喜びを感じ、感謝して、イエスを心から愛していたことでしょう。そしてそのような大きな恩恵(ゆるしと愛)をくださったイエスに、イエスの愛に応えたいと思っていたのでしょう。そのような想いが、強い強い愛が、この大胆で高価なナルドの香油の捧げものとなって現れたのです。
私はこの物語を通して、一つの原理のようなものを教えられました。それは「目に見える人の行動は、目に見えない想いから出て来る。」ということです。最初の部分は「耳に聞こえる人の言葉」に入れ替わっても良いと思います。想いが行いや言葉となって現れるのです。ある先輩の牧師から教えていただいたことがあります。それは「牧師は、事実ばかりでなく、事情を見なければならない。」ということでした。この言葉は「牧師は目に見える行動、耳に聞こえる言葉だけでなく、その奥にある想いを理解しなければならない。」と言い換えても良いでしょう。これって牧師だけにあてはまる言葉ではないと思います。マリアの大胆な行動を生み出した想いがあったのです。その行動は、いきなりでした。その捧げ物は唐突でした。ユダが言うように、これをお金に換えて貧しい人のために施した方が良かったのかもしれません。
しかし、イエスはこのいきなりの大胆な捧げものを喜んで受け入れました。もしかしたら、ナルドの強烈な香りで失神しそうだったかもしれませんが・・・そして尊い意味を与えてくださいました。それは間近に迫ったイエスの十字架の死の準備という意味でした。それはマリアが考えもしなかった大きな大きな意味でした。後々までも語り伝えられる最も「高価な捧げ物」をマリアは図らずも「してしまった」のでした。
この出来事が私たちに伝えるメッセージはとても貴重です。それは想いを行い(言葉)表すことの大切さです。私たち、たくさんのお恵みを神様からいただいています。聖書の言葉に聴いて、思い巡らす、祈る、黙想する中でそれに気づくことができます。その恵みを喜び、感謝して、その恵みに応えようとする想いが生まれます。「何をしたら良いだろう」、「何を言ったら良いだろう」。行動に移しましょう。思いついたことをやってみましょう。間違えても良いのです。もしかしたら厳しく非難されるかもしれません。あなたの行動や言葉は目に見え、耳に聞こえますから。そしてあなたの想いは目に見えないし、耳に聞こえない、すなわちわかりません。しかし、イエスはわかっていてくださいます。目に見える行い、耳に聞こえる言葉の奥にある私たちの想い(喜びと感謝)をイエスならわかってくださいます。批判し足を引っ張るユダの言葉は必ず存在します。そのユダは私かもしれません。でもイエスの言葉とユダの言葉とどちらかが大切でしょうか?答えは明らかです。
受難節の時期、心静かに聖書の言葉に聴き、祈りましょう。自分の罪、自分に与えられている恵みについて、思いめぐらせましょう。様々な気づきが与えられます。喜びと感謝が与えられます。想いが与えられます。その想いをどんな小さなことでも良いから行いや言葉で表しましょう。間違っても良いのです。間違いかどうかはやってみなければわかりません。失敗して大いに結構、「上等」です。必ずそこから良い学びを得ることができます。想いを何かに表しましょう。その想いとそれを表す行動こそ「最も尊い捧げもの」なのです。

賛美 567「ナルドの香油」
献金(ご都合の良い時に教会にお捧げください)
頌栄   90「主よ、来たり、祝したまえ」
黙祷
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