2024.2.25 開会 10:15 受難節第2主日礼拝(メシアへの信仰)

◎できるだけ10時15分に、難しい方はご都合のつく時間に守ってください。
黙祷    
讃詠 8「心の底より」
主の祈り
賛美 208「主なる神よ、夜は去りぬ」
聖書 ヨハネによる福音書 第9章13-41節(新約聖書184頁)
13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。18 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、19 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」20 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」
22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。23 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」26 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」27 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」28 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」30 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」34 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
- ファリサイ派の人々の罪
35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しか今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

賛美 343「聖霊よ、くだりて」

説教              <大胆に語る>           牧師 木谷  誠
岩手県で牧師としての歩みを始めた頃、ヨハネによる福音書を初めから順番に礼拝で朗読して説教したことがありました。その時に聖書朗読がとても長くなりました。本日の聖書朗読もとても長いです。申し訳なく思いつつ、「そうせざるを得ない」という事情もあります。本当は9章1節から朗読しても良いくらいなのです。なぜなのか?
それはヨハネによる福音書は「その後のこと」までも詳しく記しているからです。それがヨハネによる福音書の特徴です。「それからどうなった」、「まだ人生は続く」ということです。イエスと出会って、癒された出来事が聖書にはたくさん出てきます。それはそれで大切なことですが、癒された人の人生には「続きがあります。」癒されてめでたしめでたしで終わるのではないのです。それが現実です。そこをヨハネは大切にしていると感じます。
この出来事、元々は道端に座っていた一人の目の不自由な人について、この人が目が不自由なのは、本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもなく、神の技がこの人に現れるためであるとしてイエスはこの人を癒されました。そこまででも十分すぎるくらい素晴らしい出来事です。しかし、この人の人生はそこで終わったわけではありません。続きがあります。この人はイエスと出会って癒されたことはとても良いことなのですが、それゆえに引き受けなければならない課題ができてしまいました。それはイエスとは自分にとってどのような方であったかを証ししていくという課題です。それは決して簡単な課題ではありませんでした。イエスと出会わなければ、与えられなかった課題です。この課題の故にこの癒された人は困難に遭遇してしまいました。両親からも味方になってもらえず、ユダヤ人たちからは外に追い出されてしまいました。この「外に追い出した」ということは、22節の「会堂から追放する」ということを意味している可能性が高いです。そして会堂から追放されるということは、当時であれば、共同体から追放されることとほぼ同じであったと思われます。イエスと出会い、癒されたこの人は、その後にこの出来事を証していく中で大きな困難を受けてしまったのです。
しかし、ここで忘れてはいけないことがあります。それは外に追い出されたその人に再びイエスが出会ってくださっているということです。そしてその人の信仰はそこでしっかりと強められたということです。
私たち、それぞれにイエスと出会い、大きな恵みをいただいていると思います。それはそれで素晴らしいことです。でも人生はそこで終わりではありません。そこからも人生は続いていいきます。イエスと出会い、大きな恵みをいただいた人たちは、その恵みを明かしし、大胆に語り、行動するという課題が与えられます。それは決して簡単なことではありません。しかし、そこでイエスとの出会いが新たに与えられるのです。そこで信仰がますます強められるのです。イエスとの出会いも「一回こっきり」ではありません。「続きがある」のです。その続くイエスとの出会いの中でますます私たちは励まされ、喜びに満たされるのです。その「続きがある」ことを楽しみにして、イエスの恵みを証しする愛の業に励んでまいりましょう。
賛美 534「キリストの使者たちよ」
献金(ご都合の良い時に教会にお捧げください)
頌栄   29「天のみ民も」
黙祷

この記事へのコメント